こんにちは。
そらまめ隊長です。
5月。
もう尻に火が付いていると思わないといけないのか。まだ慌てるべきではないのか。
長男の時はこの時期には既にある程度の感触を得ていて、夏には過去問とひたすら取りこぼしをしないトレーニングをするという課題も明確でしたが、
来年早々にも本番を迎える長女の受験はまったくもって予測不能。
何しろ伸びしろはタップリあり過ぎるから、本人にやる気さえあれば勉強量に比例して、もう1ランク上の学校を狙うなり選択肢も広がるなりする筈なのに、
眠れる虎はいったいいつになったら目を覚ましてくれるのでしょうか。覚まさないまま終わるのか。
とにかく勉強を強制するような言語や行動だけは慎みたいとは思いつつも、お節介にも親の責任もある程度感じてしまうので悩み多き日々なのです。
多読の功罪
修学旅行に野外学習に遠足まで。
コロナのせいで先送りになった行事が6年生のこの時期に一挙に立て込んで、長女にとって楽しみなことが目白押しで毎日充実してるのは良いけれど。
貴重な夜の時間を勉強そっちのけで、修学旅行の栞を眺めながら長時間ニヤニヤしたりする緊張感のない姿には正直もやもやしています。
親バカながら娘は頭は悪くない筈なんです。
暗闇の中だろうがどこだろうが、幼い頃から貪るように読書をしていました。
一旦本を読み始めたら凄まじい集中力でのめり込む姿に、僕も妻もしめしめと彼女を一切止めようとしませんでした。お陰で視力は壊滅的で、検査の度に眼鏡の新調を促され費用もかさみます。
何だかんだ最後は読書を沢山してきた子が勝つ。
どっかでそんな言葉も耳にしましたが、教科を問わずテストの長文問題を読み取る力が必要だということは分るのだけれど、それと国語以外に具体的に読書が受験にどう生かされるのかは、いまだにピンとこないままです。
野外学習は完全燃焼
当初はジャンルを問わずどんなことにも好奇心を持てる姿に、長男に勝るとも劣らない将来の雄々しき姿を想像したものでした。
同じ小学校での行事をただの通過儀礼みたいに機械的にこなしていた長男に比べ、長女はいちいち思いきり感情移入して情熱的に入り込みます。
それこそ読書で感受性を磨いた成果であって素晴らしいことなのだけれども、日常生活の中で起きる些細な出来事や朝日小学生新聞で目にする悲惨な事件にまでオーバー気味に関心を持つものだから、勉強などひとつのことをするには集中力が途切れがち。
最近では寧ろ読書はデメリットの方が大きいのではないかなんて、低下する一方の視力も含めて考えてしまったりしています。
ただ仮に受験に失敗しようが、読書というのはそんな短期目標を視点に置くツールでもなく、もっと人生全体を俯瞰した人間形成において尊い効果を発揮するはずだから、すぐにこれは一体何の役に立つのだろうという思考になる親の方が恐らく問題なのでしょう。
そんな父親の葛藤を察知してか、長女の方でも親の目を気にしてる素振りは見せます。彼女がいつまで経っても勉強を始めようともせずタブレットを見てる姿を僕が目撃すると、チラッと目をこっちに向けて「しまった」という表情をします。
監視人みたいに思われるのはやはり本意ではありません。
嫌がられると分かってることは言いたくないし、言われるから渋々勉強をするような子にもなって欲しくない。
長い人生の中で結局何が良かったのかなんて最後までわからないのだから、最終的には本人が良かれと思うことをしてくれたらいいのですが。
教育虐待の定義
と、長女の話はこれぐらいにしておいて。
親がどこまで先を見越して幼い時の環境を作ってあげられるか、というのがやはり子供の人格を形成する上で大部分を占めるんだろうなと思います。
本当は誤った方向なのに、これは子供にとって最良!と確信して逃げ場を無くしてしまうような環境設定することは、それだけである意味虐待になり得ます。子供に一切の学ぶ機会を与えないのも良くないですが、過度に与えすぎるのも虐待になるのではないかと思うのです。
子供がある程度自分で選択出来る材料を用意だけして、あとは自然の流れに任せる。
親は選択肢を与える以上のことはしてはいけません。選ぶのは子供。幼い子供に選択をする力などないだろうというとそうでもありません。じっと観察してると確かに好きなものには反応するし、そうでないものにはそっけなかったり。そこに親の願望が混じらないように常にフラットな目で見てあげるべきなのです。
途中で辞めたって全然OK。飽きやすい方が、我慢して辞められないよりも余程人の気持ちが分かる人間らしい大人になります。中には一生かかってやっと本当に好きなことを見つけられる人だっています。親元にいる子供のうちは長く険しい人生のほんの初期段階に過ぎません。
楽しい思い出。温かい思い出。笑える思い出。バカバカしい思い出。すべてがもう2度と味わえない一度きりのかけがえのないもの。
家族での溢れんばかりの優しい思い出をこれでもかと作ってあげて下さい。どこかできっとそれらを子供が力に変えてくれる時がきます。今は仕込みであって田植えの時。収穫の時がいつ来るかなんて考えずに、気長に待つこととしましょう。
かくいう僕も、世話をかけっ放しだった自分の母親に一切の収穫の思いをさせられないまま早くに亡くしてしまいました。せめて孫たちの元気な姿を見せたかったと後悔しても仕切れない程なのですが、人生とは元々がそんな儚いものなのかも知れません。
話が逸れました。
とにかく。幼いうちは子供は驚くほど無力です。
今、長女の勉強を一番に阻んでるタブレットだって実は僕が良かれと思って与えたものでした。それが仇になるなんて当初は思ってもおらず、
真っ新なタブレットを不思議そうに眺めながら喜ぶ子供たちの顔が見たかっただけでした。こんなすげーもの買ってくるパパすごいって思われたかった。それが悪なのかどうかはまだ分かりませんが、種を蒔いた張本人は父親自身であって、勉強そっちのけで動画を見まくる長女を責める資格なんてないんですよね。
そしてたとえ今の成績がこれ以上上がらなくても、それは長女にとっての収穫の時期がまだ来ていないだけ。
彼女の長い長い人生について、現時点では何も悲観すべきことなどないのです。彼女が本当に幸せを掴むのが我々が死んだ後になるのなら、それだって構いません。
元気で、毎日を楽しんでくれていて、我々家族のことを大好きでいてくれるならそれだけで十分。
健康であることに麻痺するように、当たり前のことに感謝出来なくなるのが一番怖い。油断して多くを望むと幸福度がどんどん低くなっていってしまいます。
これから夏を迎えるにあたり、否応なしにますます緊張と不安と、受験本番への熱は高まるばかり。
多感な思春期が受験の暗い思い出で塗り潰されてしまうことのないように。十分に警戒したいと思います。
長女に限らず、長男も次男も、親元にいてくれてる短い時間を後悔のない過ごし方をしようと、改めて肝に銘じます。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。